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出産〜2ヶ月までの覚え書き

妊娠中の覚え書き
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いよいよ!

手術の朝、いつもより少し早く目覚めた。手術開始は9:00予定と聞いている。7:30すぎ夫と毋がやってきたころには、もうあたしは手術着に着替えて点滴をされ、スタンバイしていた。いよいよだ。でもここまできてまだ実感がない。あと1時間くらいで子どもが産まれるなんて信じられない。9:00になった。あれ?9:00からっていってなかったっけ? と、思っていたら看護婦さんたちがやってきて、あたしは階下の手術室まで運ばれた。知らなかった。ベッドに寝たまま手術室までいくんだ。

緊張しながら手術台の上で待つ。麻酔はやっぱりちょっと痛かった。下半身だけの腰椎麻酔だ。意識はあるので、出産の瞬間はわかるのだ。意識のあるなかでおなかを開かれるのってちょっと恐いな。先生がきた。ホントにいよいよだ。もうおなかに感覚はない。左手には血圧計かなんかの器械がとりつけられ、おなかの上は布で仕切られている。恐いモノ見たさで天井のライトに映らないか目をこらしてみたけどさすがに見えなかった。執刀医の先生が若い先生に説明をしながら手術は始まった。手術室に入って30分ほど経った。先生が“出ますよ”と言ったと思うと、何かを取り出した感じがした。産まれたの? 少しして、“うえ、うえ、うえ…”小さな泣き声が聞こえた。ナミダがでた。

“うわ、小さい…” このくらいしか言葉がでなかった。看護婦さんが赤ちゃんを新生児室につれていく前に少しだけ触らせてくれた。つかの間の対面だった。帝王切開はすぐに抱くことができないのが寂しい。赤ちゃんはそのまま新生児室に運ばれた。しばらくして(この後のが長かった)、“2466gです”と新生児室から連絡が入った。ああ、2500いかなかったんだ…なんて思いながら、あたしはどうしようもない吐き気に襲われていた。麻酔科の先生が横で、“気持ち悪かったら吐いてもいいですよ”って言ってるけど、この状況で?? やっぱり吐いた人いるんだろーか?

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お名前はひらりん?!

新しい生命の誕生の感動に浸る間もなく、麻酔がきれてきてものすごい痛みが襲ってきた。そういや、帝王切開の手術後、病室で泣き叫んでる人いたな…。いた、いったーい!!そんな悠長なこと言ってらんなくなってきたので痛み止めをもらう。座薬をしてもらったが効くまで30分ほどかかるという。ちゅ、注射にしてくれー。結局、座薬ではさほど効かなかったので注射をうってもらう。筋肉注射なのでイタかったけど、コレはすぐに楽になってあっという間に眠ることができた。フツーの手術と違って帝王切開は出産なので、当然産んだ後の子宮収縮は起こる。モチロン傷口はふさがってないので…イタイわけだ。

小児科の先生がやってきた。ナニゴト?? 通常赤ちゃんは狭い産道を通る長い過程で肺の中の羊水が押し出され、外に出てすぐ肺呼吸をすることができる。帝王切開の場合、イキナリ外の世界にでてくるので、最初呼吸が上手にできない場合が多いらしい。あたしのベビーも軽度の呼吸障害を起こしていて数日保育器に入ることを告げにきたのだ。先生がきた時にはちょっとビビっちゃったけど、とりあえず一過性のもので良かった…。でも夫や両親が、まだ保育器越しにしか見れなかったのは残念そう。早く出れるといいなぁ。それでもたびたび、ベビーの姿を夫にデジカメで撮影してもらった。うわー。身体のほとんどがおむつだ。ちいさいなあ。無事産まれてヨカッタ…。

名前は、実はもう決めていた。妊娠がわかったときから、海の青のイメージの名前にしようと思っていた。そのなかで夫と2人で気に入った響きと字ヅラを選んで組み合わせてみた(実際の名前ははヒミツ)。愛称は、“GUY”。ちなみに、夫の名前は、夫の父の故郷の地名から一字、夫の母方の祖母の名前から一字をとってつけられたらしい。それにあてはめて考えると…夫が生まれ育ったのは、江戸川区の平井。あたしの母の名は倫子。平倫? ひらりん…それもカワイイかも。

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マタニティーブルー

手術から3日目の夜、あたしは婦人科から産科病棟に移った。このころには痛み止めをもらわなくても眠れるようになっていた。が、歩いていくのがツラかった。3日ぶりの歩行だ。しかも大きかったおなかもなくバランスはおかしい、何より力を入れると傷が痛い!! 産まれたての子鹿のような気分でよたよたと歩いて階下の病棟へ移った。まっ先にGUYを見に行く。あ、保育器から出てる! やっぱり小さかったけど、頑張って生きてるんだなー。あたしも頑張るよ。 この後、トイレにいくのもツラい状況でありながら、どうしても確認したくてあるところへ向かった。この3日でいままでたまっていたものを吐きだすように尿がでた。いままでほとんど出てなかったのに。タンパク値も50代まで下がっていた(手術前日は300!)。それになんたって子ども産んだんだし…。“え〜…”向かった先は体重計である。でも2500グラム近い子どもを産んだというのにナゼか2キロしか減ってなかった。

この晩、腰痛と傷の痛みと同室の人のイビキで眠れなかった。これがいけなかった。翌朝、血圧が若干高かったのだ。病気の人ばかりの婦人科病棟とは違い、産科は健康なお母さんがほとんど。そんななかあたしは重症の中毒症ということで、看護婦さんはあたしの体調に神経質だ。同じくらいの血圧でも婦人科のときはなにもいわれなかったのに。午前中の授乳は休むように言われる。それでも午後から初めて授乳にチャレンジした。

初めて抱いたGUYは本当に小さくて軽かった。他の赤ちゃんの大きさも千差万別だけど、GUYはひときわ小さかった。授乳前に看護婦さんに乳頭マッサージをしてもらってはいたが、小さなGUYにはとても硬くて、吸うどころかくわえることもできなかった。しばらくチャレンジしたけど、GUYは疲れて寝てしまった。看護婦さんにしばらくはほ乳びんで授乳するようにいわれた。早く大きくなって、直接のんでほしいなぁ。

夜20:30。病室にいたら看護婦さんが“ボトル授乳はしないんですか?”と聞きにきた。知らなかった。あたしは夜遅く産科病棟へおりてきたので、あまりここでのスケジュールを聞かされていなかった。授乳時間が3時間ごと24時間決まっていることをしらなかった(消灯時間後はお母さんの体調次第)。なんだか子どもの授乳にこないダメ毋と言われたように感じてすごく焦った。これがブルーのはじまり。この日もあまり眠れなかった。翌日、タンパク値が120に上がっていた。授乳を休むよう言われる。せっかく今日からフルで授乳頑張ろうと思っていたのに。そして、次の授乳時間。血圧を計られる。どきどきするので血圧も上がる。休むよう言われる。ついに夕方、1回だけ許された授乳の途中(部屋であげていた)、ベテラン風の看護婦さんがやってきて、GUYをつれていってしまった。そして、しばらく安静のために授乳もなし、面会も控えるように言われた。ものすごく悲しくて、この晩は泣いてばかりいた。GUYに会いたいよ…。

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退院ダァッ!

すっかりブルーになっていたあたしも2日ほどして授乳させてもらえるようになると落ち着いていた。相変わらず血圧とタンパク値をモニタリングする毎日で、タンパクがマイナスになるまで退院できないといわれているかつて同室だった妊娠中毒症仲間のあたしを含む3人は、すっかり主(ぬし)となっていた。以前、あたしより先に帝王切開を宣告されていた彼女は、その後落ち着いて結局自然分娩をしたらしい。が、出産後なんとタンパク値が500まで上がったらしい。500ってすごい。これには先生もビビっていたらしい。どうりで産まれたはずなのに見かけないと思ってたら病室で絶対安静を強いられていたのね。それでも彼女はケロリとして“退院したら休めないから今のうちに休もうと思って”などと悠長にしていた。あたしより随分若そうなのに彼女は大人だ。

通常帝王切開の人が退院する前日にあたる術後9日目。子宮の中をキレイにする処置を行なう。自然分娩の場合と同様、帝王切開でも悪露(おろ)は出るらしい。悪露とは、子宮内に残る血液や卵膜や細胞など分娩時の残骸で、それが産後排出されていくわけだけど、帝王切開の場合、とくにあたしのように陣痛も起こる前に行われた予定帝王切開の場合、子宮口は全く開いていない。それで悪露が排出されやすいように処置をするわけである。サラっとそういわれれば大したことなさそうなんだけど、具体的に何をするかといえば、子宮を収縮させる注射をうって(陣痛促進剤みたいなもの?)開いていない子宮口をこじあけ、子宮のなかをひっかきまわして掃除するわけである。“…っ!”いったぁーい!!看護婦さんが“息吐くようにすると楽になるよ”っていうので思わず“ヒ、ヒ、フー!”まさかここで呼吸法が役にたつとは。あたしはこの後39度近い発熱をして、その翌日ひどい下痢をした。これによって退院がのびたことは言うまでもない。

GUYも産まれて2週間も経つと大分人間らしくなってきて、また長いもんで(世話もやけるので)看護婦さんにガイと呼ばれて可愛がられていた(ように思う)。しかし、いつまでたってもGUYは寝てばかり。母乳はおろか、ミルクを飲ませるのもひと苦労。まあ、本当ならまだおなかの中で寝てられた時期なんだから…と看護婦さんはいうけれど、2週間もたつのに、いまだに乳首から吸うことができない。ダイジョーブかなぁ…。とんがったアゴも可愛いんだけど、口が小さくて吸う力も弱いのよねぇ。直接吸ってもらえないもんだから、いっつも母乳を搾ってボトルであげていたので、これまでにすっかり搾乳も上手くなってしまった。結局退院までにほとんど直接は吸わなかったんだけど、看護婦さんに“(もし直接飲まなくても)あなた搾るの上手いからいつでもしぼりたてあげられるから大丈夫よ”などと言われるくらい。ホルスタイン…。

GUYが産まれて16日目。最初の入院から40日目、ついに退院できることになった。中毒症仲間(いやな仲間…)の1人はもうすでに退院していた。残った2人どっちが先でもイヤだなぁと思っていた矢先、2人同時に退院できることになった。結局2人ともマイナスにはならなかったのだけど、タンパク値はそう簡単には下がらないので、腎臓内科の診断をあおぎ、退院して様子をみることになったのだ。最終的に12キロ増えた体重はこの時までに15キロ減っていた。
入院の日はまだコートがいるくらいの寒さだったのに、退院の日には、すっかり春めいて暖かくなっていた。明るい日ざしの中でGUYを見て初めて思ったより髪の毛が茶色いことに気がついた。あたしも子どもの頃茶色かったもんなぁ…。それだけのことだけど、なんだかすごくうれしくなった。(つづく)

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トラちゃんとサルちゃんのこと

話はそれますが、あたしの実家で飼っていた犬(マルチーズ)の話を少し。

オスのトラは1986年の寅年のお正月に我が家にやってきた。だからトラと名づけられたんだけど、マルチーズの見た目におよそ似合わない名前が最初はすごくイヤだった。でもだんだん愛着がわいてきて、6年後(1992年)に迎えたお嫁さんには、申年だったので今度はあたしがサルと名づけた。この名前はあんまりだと、母は当初サリーと呼んでいたが(サリーもどうかと思うが)、あまりにやんちゃすぎるその姿に結局はサルに落ち着いてしまった。年齢差がありすぎたのか、この2匹の間に子どもはできなかったけど、家に帰るといつも2匹でにぎやかに迎えてくれた。

トラは老齢のため、すっかり弱っていて余命半年と言われていたが、それから2年くらい生きていた。しかし、運命の日、昨年の7月のあたしの結婚式の日。ついにトラが倒れた。父と弟が披露宴を終え、家に帰ると倒れていたらしい。その後数日の昏睡状態を経て、いったん自宅に戻ったその日、トラはいつもいた居間をひとまわりして、遠吠えのように鳴いたかと思うとそのまま息をひきとった。あたしはその頃何も知らずに、おなかにGUYを意識しながら新婚旅行先のニューカレドニアを満喫していた。帰国後、母に妊娠の報告をした時にこの知らせを受けたのだ。妊娠初期の新婚旅行はかなりのバクチだったんだけど、トラがGUYを守ってくれたんじゃないかって思った。

そして、タイヘンだった妊娠後期を経て、GUYが無事産まれた翌朝、サルが急死した。このことは出産のあとだけに毋が気を遣ってかあまり話したがらなかったので詳しくは聞けなかったが、GUYが産まれた日、東京の病院から帰るとサルが倒れていたらしい。死因は肺水腫。トラはともかくサルはまだ若くてあんなに元気だったのに。毋はショックでその日、お見舞いにこなかった。

GUYの妊娠と出産のタイミングで死んでしまったトラとサル。皮肉なことに、現在実家の居間のまん中にはGUYが横たわっていることが多い。ここにきっとサルちゃんがいたら、GUYがいる間は部屋の外に追いやられることになるだろうし、あたしたちも今ほど頻繁には実家に行けなかったかも知れない。いろいろあったけど、無事にGUYが産まれて今こんなに元気なのは、トラとサルがあたしたちを守ってくれたからに違いないとあたしは信じている。(つづく)

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